明雲
 木曽義仲関連人物紹介


 
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 明雲大僧正: ? - 1183年11月19日
 村上源氏。父は久我顕通。五十五代天台座主。白山事件の際、山門強訴の責任をとらされ流罪となるが、大衆らが明雲を奪還。のちに座主にカムバックする。法住寺合戦の際は後白河法皇に法住寺に呼ばれ、山門の悪僧に協力させるよう命じられるが、源氏軍の攻撃により流れ矢に当たって死亡する。

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 ■ 略年表 ■
11672月15日、天台座主補任
11682月9日、清盛出家の戒師を務める
11765月、僧正となる
11775月、座主を辞任。伊豆配流決定
117911月、座主還任
11821月、大僧正となる
118311月、法往寺合戦で討たれる

白山鵜川事件と二人の座主
 安元元年11月、加賀国国司に藤原(近藤)師高、目代に弟の師経が就任する。この兄弟が白山末寺である鵜川寺(涌泉寺)と対立し、安元3年早々、白山衆徒が神輿を担いで本山である比叡山延暦寺に訴えたことや、師高兄弟の父西光が後白河法皇の側近であったことから、朝廷と比叡山の対立に発展する。4月20日、山門の訴えにより師高は解官、尾張国に流罪となるが、28日、樋口富小路付近から火災が発生し、京都中が火の海となる(安元の大火)。
 5月、天台座主であった明雲は、山門強訴の責任を取らされて天台座主を罷免され、伊豆国配流が決定する。とばっちりである。『平家物語』諸本によると、西光が後白河法皇に讒言したらしい。還俗して名を藤原松枝と改名させられたという。平清盛も明雲を庇うが、後白河法皇の怒りがおさまらず、清盛に会おうとしなかった。これにより、清盛と法皇の溝がいっそう深まることになる。
 新座主には七宮覚快法親王が就任するが、大衆達は配流途中の明雲を追いかけ、大津で明雲を奪い取ってしまう。比叡山へ戻ったのはよいが、すでに新座主がいる状況なので、覚快も明雲もさぞや気まずかっただとうと思われる。
 治承三年の政変(1179年11月)、いわゆる清盛のクーデターが起こり、覚快は天台座主を辞任し、明雲が再び天台座主になる。
 
法住寺合戦と明雲の最期
 寿永2年(1183)、入京した義仲は、後白河法皇との関係を悪化させてしまう。法皇は僧兵達を動かすために、天台座主明雲と園城寺の長吏八条宮円恵法親王を法住寺に呼び出す。覚一本『平家物語』によると、法往寺合戦当日、明雲は八条宮らと法住寺にいたが、義仲軍に襲撃されて燃え上がった法往寺の黒煙が迫ってきたため、馬で河原に逃げたところで、源氏勢が手当たり次第に矢を放ったに当たり、首をとられたとある。が、『源平盛衰記』などの読み本系諸本には、明雲は楯六郎親忠に腰骨を射られて落馬、八条宮は根々井行親に耳もとを射られて臥せたところをそれぞれ兵に首をかかれたとある。二人の首は、六条河原に晒された。
 
不吉な名
 『源平盛衰記』にしか記述が無いので史実ではないと思うけど…。後白河上皇が比叡山に登った時、明雲は側近だった藤原信西(保元・平治の乱の人)に相(占い)を依頼すると、「兵杖(兵乱に合う)の相」があると言われた。さらに、ある陰陽師は、「明雲」の名前は「日」に「月」を並べ(明)、「雲」を下にしているのは、月日の明りが雲に遮られているので、災いに遭うだろうと。。名前を付ける際には、難癖を付けられないよう気を付けましょう、ということで。
 
 



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