大夫坊覚明
 木曽義仲関連人物紹介


 
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 大夫坊覚明: 1140年以前 - 1205年以後
 本名は信阿。信救得業とも名乗る。俗名は通広(藤原氏か)。
 以仁王と源頼政が平家打倒を企てた際、南都に味方になるよう手紙を送るが、その返事を書いたのが信救である。清盛のことを「平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いて清盛を激怒させた。その後、源行家経由で義仲の右筆となり、大夫坊覚明となのる。倶梨伽羅峠の戦いの際、埴生八幡宮に願書を記したり、入京直前には比叡山に手紙を書いて味方に付けた。その後の消息は不明だが、義仲滅亡後は再び信救と名乗って箱根に移り住み、鎌倉にも出入りしていたが、身許がばれて箱根・鎌倉から追放される。
 著書に『和漢朗詠集私注』や『白氏新楽府略意』などがある。『平家物語』の成立に何らかの関与をしている可能性のある重要人物である。三読物とされる謡曲『木曽』のシテ(主役)。

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 ■ 略年表 ■
1161/ ?『和漢朗詠集私注』を執筆
1172/ ?『白氏新楽府略意』を執筆
1180/05/23興福寺返牒を記す
1181/05/19伊勢神宮祭文を記す
1183/03 ?この頃、義仲の右筆となる
1183/05/09白山三馬場願書を記す
1183/05/11新八幡願書を記す
1183/07/10木曽山門牒状を記す
1190/05/03坊門姫追善供養の導師を務める
1194/10/25如法経十種供養の願文を記す
1195/10/13箱根山から追放となる
1205/02/?信貴山に出没

生没年
 1140年(保延6)以前か - 1205年(元久2)以後。
 生没年は不明だが、蔵人だったのを、近衛天皇の時代(在位1141〜1155)に出家したとされるので、生年はそれ以前、遅く見積もっても1130年前後が妥当だろうか。また、1205年に史料で生存が確認できるので、没年はそれ以降である。わりと長寿だったようだ。
 
家族構成
 系譜不詳。藤原氏の学校である勧学院出身であること、蔵人の身分であったらしいこと、比叡山で出家したらしいこと、藤原氏の氏寺である南都興福寺の学侶であったこと、晩年も京都・奈良付近に現れていることなどから見ても、覚明は藤原氏(おそらく傍流であろう)の出身であったと考えられる。
 伝承では、信州の海野氏出身(海野幸親の子)で、義仲亡き後は法然・親鸞に師事し、晩年は信州に戻ったという話もあるが、あくまでも伝承である。
 
源平合戦以前
 資料を総合すると、覚明はもともと勧学院の文章博士で、進士蔵人通広という名前だった。近衛天皇在位時、理由は不明だが比叡山の黒谷で出家し、信阿、あるいは西乗坊信救とも名乗った。その後、北陸や東北などで修行を重ね、その間、文才と知識を活かして数々の執筆活動をしていた。特に出羽の隴山寺で書いたとされる『和漢朗詠集私注』は「覚明注」と呼ばれ、『和漢朗詠集』の研究にはかかせない資料である。
 
興福寺返牒
 1180年5月、以仁王と源頼政の平家打倒計画が事前に漏れて、以仁王らは園城寺(三井寺)に向かう。この時、頼政は比叡山や南都(奈良の興福寺や東大寺など)に、味方に付くよう園城寺の名で手紙を出す。しかし比叡山は手紙の内容に難癖を付け、さらに平家から賄賂を受け取ったことで平家についた。興福寺は味方に付くと決め、その返事を文才のある信救に書かせた。信救は、「清盛は、平氏の糟糠、武家の塵芥」と平家を激しく批難する文言をしたためて三井寺に送った。そのことが清盛を激怒させ、南都から逃亡せざるを得なくなる。『源平盛衰記』はこの時、顔に漆を塗って変装したとするが事実かどうかは不明である。信救の方も勝ち気な性格だったようで、平家のみならず比叡山に対しても、賄賂に靡いた態度を罵る実語教・陀羅尼を作っている。
 南都を逃亡した信救は、しばらく消息不明になるが東国方面に向かっていたらしく、ちょうど墨俣川の戦いに敗れた源行家が三河国府にいたところを頼み、行家に同行させてもらうことになる。
 
大夫坊覚明の誕生
 行家を頼みとした信救であったが、行家は頼朝と折りが合わず、義仲の許に身を寄せる。そのことが頼朝が義仲を警戒する要因となり、清水冠者人質事件に発展してしまうのだが、義仲にとってプラスとなったのが、信救が右筆として義仲の傘下となったことである。文才に長け、都の内情に詳しく、しかも源平合戦の発端となった頼政挙兵事件に直接的に関わっている人物である。この時、信救は名を改め「大夫坊覚明」と名乗った。
 ここで問題となるのが、大夫坊の「大夫」である。これがもし出家前、つまり蔵人通広当時の官職からとったものであれば、覚明の出自が少しだけ絞られることになるのだが、残念ながら名前の由来については何も記されていない。もしかしたら五位蔵人の身分であった……かも?
 個人的には信救が何故、行家から義仲へ鞍替えしたのかも気になるところである。信救が義仲に期待するものを見出したのか、あるいは行家のダメっぷりに見切りを付けたのか、はたまた義仲の方が信救を必要と考えて、行家を受け入れる交換条件に信救の引き渡しを要請したのか。興味深い点である。
 
北陸合戦から入京まで
 『平家物語』は、覚明を文武両道と賞賛しているが、武器を取って戦った記述は無い(武装はしている)。だが、この時代であっても、ペンは剣よりも強しである。義仲は越中へ進出すると、北陸合戦の勝利を願って北陸の霊峰である白山に願書を奉納するが、これを記したのが覚明である。倶梨伽羅峠の戦いの直前では、義仲が偶然にも源氏の氏神である新八幡宮(埴生護国八幡宮)を見つけ、やはり覚明に願書を書かせて奉納する。この時代の人々は神仏や占いを信じていたので、この効果は抜群であっただろう。これだけでは所詮は神頼みで勝ったのは義仲軍の実力、と思われるかもしれないが、入京直前に目の前の巨大な壁である比叡山をどうするか、という問題が生じる。武力に任せれば、比叡山の僧兵など簡単に蹴散らせるのであるが、かつて白河法皇が自分の思い通りにならないものとして「双六の目」「鴨川の水」とともに比叡山の僧兵をあげているように、皇室にとっても厄介な存在である。
 覚明は比叡山で出家し、一時期身を置いていたであろうから、比叡山の僧兵がどのような性質の者であるのかよく知っていた。覚明は比叡山に手紙を出して、僧兵の心情を確かめて見ようと提案し牒状を記す。これが「木曽山門牒状」と呼ばれるものである。この覚明の活躍によって比叡山は源氏に付き、義仲は無血入京を果たすことになる。
 
その後の覚明
 比叡山を味方につけ、義仲と共に覚明も比叡山に登ったところまでは『平家物語』に記述があるが、その後はぱったりと消息が途絶える。入京後の義仲の代弁者的立場として史料に登場するのは、後に義仲の力で天台座主となる俊尭である。そう考えると、覚明は入京直後(あるいは直前)には、義仲の許を離れた可能性もあるのかもしれない。少なくとも、即位問題で北陸宮の敗北が確定した時点で、覚明は義仲の側にいる理由はなくなるわけだし。。覚明の立場で考えると、興福寺を焼討した平家を都から追い出せたことは、仕返しとしては十分過ぎるものではなかったかと思うのだ。当時は絶対的権力者の平家を倒すなんて、誰も想像できなかっただろうから。
 覚明の名が資料に現れるのは、義仲無き後の『吾妻鏡』の記述である。名前も信救に戻してちゃっかり箱根に居住していた。しかも、鎌倉に出入りし、頼朝夫妻とも顔を合わせていたのだから、さすがというか何というか。若い頃から文才には定評があったと思われ、依頼に応じて文筆活動をしていたようだ。覚明ほどの文才のある人物は、当時でも希であったと考えて差し支えないと思われる。結局身許が判明して、箱根・鎌倉周辺の「ところ払い」を命じられるのだが、その後、どこに居住していたのかは定かではない。おそらく京都・奈良付近であったことは、晩年に信貴山に現れていることからも想像できる。
 
『曽我物語』と『平家物語』
 覚明が箱根山にいたと思われる時期に、曽我兄弟の仇討ち事件が起こっている。曽我兄弟の弟箱王丸(五郎時致)は、父の河津三郎が射殺された後、箱根に預けられていたのである。このことから、覚明を『曽我物語』の作者ではないかと考える研究者も(昔は)いた。それならそれで面白いのに。ちなみに覚明は『箱根山縁起序』を記している。
 吉田兼好の『徒然草』には、『平家物語』は信濃前司行長が作って生仏に語らせたという記述があるのは有名である。いっぽう覚明には、もとは海野氏の出身で、義仲亡き後、法然や親鸞に師事して「西仏」と名乗り、その後は信州に戻り康楽寺を建立したという伝説がある。「西仏」=「生仏」繋がりということなのかよく分からんが、覚明を『平家物語』の作者に考える人が結構いたようだ。それを題材にした小説もある。
 現実問題として、覚明が『平家物語』の成立に何らかの関与をしている可能性は高いのだが、それはまったく別の理由である。だが、それだけ覚明の文才が高く評価されていたということなのだろう。
 
 



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