源義高(清水冠者義高)
 木曽義仲関連人物紹介


 
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 源義高(清水冠者義高・義重・義基とも): 1173年? - 1184年4月26日?
 義仲の嫡男。『吾妻鏡』は義高とするが、『平家物語』諸本では義重、義基など複数の説に分かれる。『平家物語』では、頼朝と決別した行家が義仲を頼った(いずれも行家には甥)ため、その事を警戒した頼朝からの要求により、鎌倉へ事実上の人質として向かう(名目上は頼朝・政子の長女大姫の婿)。
 その後については『吾妻鏡』に記され、義仲が討たれた3ヶ月後、義高は鎌倉を脱走するが、入間川付近で追っ手に追いつかれ、わずか12歳で斬られてしまう。大姫は義高よりも幼かったが、そのことを知って病がちとなり、ほとんど回復せずに20歳ほどで死去している。
 幼い二人の悲劇は、御伽草子『清水冠者物語』の題材になり、広く知られるようになる。

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 ■ 略年表 ■
1173 ?この年に誕生か
1183/03/人質として鎌倉に送られる
1184/04/21鎌倉を脱走したことが露顕
1184/04/26入間川で討たれる

生没年
 1173年(承安3)? - 1184年(元暦元)4月26日?。
 史料がないのではっきりしたことは分からないが、『平家物語』は、鎌倉に送られたのが11歳だったとする。殺害されたのは翌年(1184年)、『吾妻鏡』4月26日条に記されているので、享年12。逆算すると生年は1173年となる。
 
姓 名
 清水冠者の名前は実はよく分からない。というのは資料によってぜんぜん異なるからである。「義高」とするのは『吾妻鏡』で、長門本『平家物語』にも「義隆」とある(ただし「義守」とする記述もある)。義重・義基とも。覚一本『平家物語』は義重、延慶本『平家物語』・『清水冠者物語』・『尊卑分脉』は義基、曽我物語は『義衡』としている。大事なのは、この異同が何を意味していることなのか、なのだが…。なお、清水冠者の「清水」が何を指しているのかも不明である。そのため、信州の清水の湧く地が何カ所が候補にあがっているが、多分何の根拠もない。
 
家族構成 & 大蔵合戦
 義高が義仲の嫡男であることは間違いないのかと思われる(史料が発見されれば別だが)。『平家物語』によると、母は今井兼平の妹、つまり中原兼遠の子であるが事実かどうかは不明。義仲には清水冠者の他に四人の子がいた。力寿・鶴王・余名王という三人の弟達、そして当歳の妹である。義高は五人兄妹の長子であったらしい(これも確証はない)。
 
清水冠者人質事件
 『平家物語』を見ると、義高が鎌倉に赴かなければならなかった原因は、源行家が頼朝と仲違いをして義仲の許に身を寄せたことにより、頼朝が行家と義仲が結託して自分を討とうとするのではないかと警戒したためである。だが、行家の身柄引き渡しの代替案として清水冠者を要求した背景には、甲斐の武田五郎信光による讒言があったとする。信光は義高を娘婿にしたいと義仲に告げると、義仲はそっけなく断った。信光はそれ根に持ち、義仲が平家の婿になろうとしているとでっち上げて頼朝に讒訴したのである。どこまでは本当なんでしょうかね。
 義高は泣く泣く母や乳母と別れを惜しみ、最後の笠懸を見せた後、同じ年の海野小太郎行氏を御共にして鎌倉へ向かった。道中、義高は悲しみの涙を見せるが、行氏が励まし、和歌を交わしている。
 
清水冠者の最期
 元暦元年(1184)1月20日、粟津で義仲が討たれてしまう。 義高の耳に父の死の知らせが届いたのはいつか分からない。4月になると頼朝は義高を殺害することを決める。極秘にしていたが、館の女房達が漏れ聞いて大姫に知らせた。義高は女装して他の女房達に紛れて館を脱出する。いっぽう従者の海野行氏は、義高になりすまして部屋を動かず、義高の好きな双六を一人で打っていたが、21日の晩にとうとうバレてしまう。頼朝は怒って行氏を監禁し、堀籐次親家らを討手に派遣した。その間、大姫は生きた心地がしなかった(そりゃそうだ)。26日、堀籐次が戻り、入間河原で義高を殺害したことを報告した。
 現在でいうと10歳ほどの子どもが、約一週間、どのように彷徨っていたのか、どこを目指して逃げていたのかも、気になるところです。
 
 



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